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物核「·」零 - 附錄 宇宙樹観測選択原理(ASRP)
宇宙樹観測選択原理 Arbor Selective Realization Principle(ASRP) 以下の条文は、V 宇宙上層構造(ADA)が遵守する公理級の規則である。 それは「物理を超える」拓撲層の規範であり、 「叙事が成立するための根基」でもある。 第一条 分岐自発性公理(Axiom of Spontaneous Bifurcation) 五軸パラメータ空間において、「因」と「序」が唯一でなくなった瞬間、宇宙態は必然的に複数の可行解へと展開する。この展開は自然の出来事であり、いかなる存在の意志、選択、観測によっても影響を受けない。 曰く:「分岐は必然なり、因果は始終を定む」(分叉有必然,因果定始終) 第二条 退相干独立性公理(Axiom of Decoherent Independence) いかなる分岐宇宙も、退相干が完了した後、その物理態、因果鎖、時序構造は母宇宙から独立し、母宇宙のその後の進化の影響を受けない。 曰く:「宇宙形を成すや、すなわち天地の命あり」(宇宙得成形,即有天地命) 第三条 拓撲無意志公理(Axi


物核「·」零 - 私の話——V宇宙入門篇
実は、私もこのような章を加えるべきかどうか、非常に迷いました。日本の出版業界はもちろん、世界全体を見渡しても、後記と奥付の間にこのような章を設ける本はほとんどありません。通常、この部分は世界観の拡張や説明に用いられます。たとえば、中土世界の付録のような資料的なもの、Cosmere の機能的解説、または沙丘の用語集のような工具的なもの。しかし本章は、皆さんに、既知でありながらも見知らぬ、新たな宇宙の魅力を語るものです。 日本の読者や英語圏の読者は、本作のいくつかの部分に対して、相当な困惑を覚えるかもしれません。 「建御名方神とカムイを構成する『八星等エネルギー』とは何なのか?」 「孤王作戦で新二課全体を瓦解させた、あの二人と裁判官が接触した謎の人物は何の力を持っているのか?」 「突然現れ、金の兜と金の甲冑に戦袍を纏った『林聖(りんせい)』と呼ばれる女性、そして最終話に登場した奇妙な名——アイネルケとは誰か?」 「主・意源核 Kéromn 重構反演式、従・意源核 Æntrios 超模態験算式、析・意源核 Téllivar 基能解析式とは一体何なのか?


物核「·」零 - 後記 繁体字中国語版のために(日本語訳)
以下は、繁体字中国語版の後記です。作品の完全な記録を残すため、並べて収録します。二篇の文章は、異なる時期に、異なる読者へ向けて書かれたものですが、描いているのは同じ一つの作品です。読者ご自身で読み比べていただければ——これもまた、「現実の再構成」のささやかな一例なのかもしれません。 私は、わざわざ異なる翻訳版のために後記を書く作者は、そう多くないと思います。 しかし『物核「・」零』の繁体字中国語版は別です。 本書の原作はまさに繁体字中国語であり、私は文字に対して、生まれつき、ほとんど病的なまでの執着を持っています。もちろん、これは自分の文学的素養がいかに高いかを誇っているわけではありません。 私はただ、母語で書かれた作品こそが、作者の内なる声を最もよく表現できると考えているのです。 それでは、まずここまで読んでくださった皆さまに感謝します。 きっとあなたは驚いていることでしょう——「自分はこんな奇妙な本を、本当に読み終えてしまった」と。 「奇妙」というのは、もちろん私自身の本書への評価の一つというだけではありません。それは血なまぐささや暴力に


物核「·」零 - 後記
この「あとがき」については、小野先生には翻訳をお願いしませんでした。どうしても自分の言葉で、日本の読者の皆さまに直接お伝えしたいことがあったからです。拙い日本語ではありますが、AI の助けも借りつつ、自ら書き上げました。印刷に際しては、繁体字中国語の原文と日本語文を併記していただくよう、特別にお願いしています。 日本に来て以来、私は長い時間を書店で過ごしてきました。装丁、レイアウト、印刷、製本、特典の作り方、そして日本独自の取次制度に至るまで、この国の出版文化をできる限り観察し、学んできました。日本は、まさに「文化大国」と呼ぶにふさわしい場所です。その独自性と奥行き、作品の多様さには圧倒されるばかりであり、同時に、このような国で自作を世に出すことに、身の引き締まる思いも抱きました。 本作は、構想・執筆から、翻訳の確認、校正、デザイン、レイアウト、印刷、さらには付録特典の制作に至るまで、すべて私ひとりで行いました。商業的な観点から言えば、最初から最後まで一人でやり遂げるというのは、ほとんど誰も踏破しない道です。これは誇張ではなく、事実です。...


物核「·」零 - 第七十七話 最終話 東土
明け方、空がほのかに白み始めていた。水平線のはるか上、地表からおよそ9キロメートルの高空に、ぼんやりとした人影が浮かんでいる。太陽はまだ完全には昇りきっておらず、斜めから差し込む光は弱く、コントラストも低い。それでも、その影が足もと——この世界のすべてを見下ろすには、何の支障もなかった。 「おお……これが『南大西洋の瞳』か。いやあ、さすがに壮観だな」 男の声が響いたその瞬間、彼のすぐそばに、ふっともう一人の人影が現れる。ひと回り小柄な人型。ぱっと見は子どものようなシルエットなのに、胸は不釣り合いなほど豊かで、腰つきも驚くほど肉感的だ。そのくせ、口からこぼれるのは、甘えたような女の声だった。 「さすがは事前シミュレーション通りね。『0号』がつくった直径三十キロ超のクレーター……フォークランド島の南岸は、跡形もなく消えちゃった。ひどい有様だわ」 「愛(アイ)ちゃん、そんなに悲観するなよ。東側の、深さ2000メートル以下の深海に沈んでくれたのは、まだ幸運だったさ。もし人類が手の届く場所に落ちてたら、絶対にどうにかして上陸して、しつこく調査を始めるだろ?


物核「·」零 - 第七十六話 骸変
「辰男さん!」 一瞬のあいだ、野良優(のらゆう)には、数メートル先に立つ男の顔がまったく見えなかった。それが、自分が涙で前が見えなくなっているせいなのか、この世界そのものがあまりにも暗く沈み込んでいるからなのか、判然としない。ただ彼は、受け身のように、繰り返し、何度も何度も——自分がこれまで出会ってきた人たち、一人ひとりの顔を、心の中でなぞり続けていた。 どこから湧いてきたのか分からない力が、ふいに身体の奥からせり上がる。野良優は、ふらつきながらも、ゆっくりと立ち上がった。 田之上辰男(たのうえたつお)はそんな彼に向かって、軽く手を振る。 「野良君、その格好じゃ、まずは座っていたほうがいい。——それからさ、その手を、座席のひじ掛けのところに置いてくれないか。さっき奴らが言っていたが、この装置がお前の"特別な力"を、俺たち一人ひとりに分けてくれるらしい」 その言葉を聞いた瞬間、説明のつかない脱力感が、肉体と精神の両方を引き裂くように襲ってくる。野良優は、ひじ掛けを力いっぱい握りしめた。ひじ掛けに埋め込まれた緑色のリングが、時計回りに回転を始める。数


物核「·」零 - 第七十五話 代価
重傷を負った野良優(のらゆう)は身動きひとつ取れず、目の前に並ぶ一隊の兵士たちを、なすすべもなく見上げていた。彼らは全身フル装備、顔まですべて戦術ヘルメットに覆われている。兵士たちは、奇妙な装置を取り出して野良優に向ける。先頭の男が、短く号令を発した。 「座標校正! 信号リンク! 起動——!」 「神崎次官、こちらが野良優の最終スキャン・レポートです。遠隔医療部の判定では、今すぐ帰還させても救命は不可能とのことです」 通信機越しに返ってきた声は、電子妨害のノイズにまみれ、ところどころ途切れながら響く。 『……どうしてこんなことに? あなたたち、特殊部隊として彼をモニタリングしていたのでしょう?』 「新二課が攻撃を開始した直後、出所不明の反撃を受けました……。未知の敵が、四か所に展開していた新二課の各部隊をほぼ同時に叩いたようです。我々が到着した時には、すでにこの有様で……」 『何ですって? そんな馬鹿な……。斑鳩絢(いかるがあや)は? 彼には野良優を護衛させていたはずでしょう?』 「行方不明です。我々の判断では、爆散して肉片レベルになったものと思わ


物核「·」零 - 第七十四話 全滅
天沼(あまぬま)から直線距離にして19キロ。高度二万五千フィートの上空。 大和勝義(やまとかつよし)の主観的な感覚では、あの不可解な光景を目撃してから、およそ半秒が経過していた——正確には、0.31秒。ほぼ、トンボが獲物を捕食するときの反応時間に等しい。 生物学において、0.3秒という値は、神経系と筋肉反射の臨界値であり、「意識が介入する動き」と「本能的な反射」の境界線でもある。また現代の製造業においては、効率と精度のバランスが保てる基準値であり、人間と機械が協調できる反応速度の限界でもある。強化系新人類である大和勝義であっても、強化されていない身体機能に関しては、この生命のルールからは逃れられない。 0.31秒—— 彼は、アルファの潜む狙撃地点で爆発が起きるのを見た。空へと舞い上がった大量の雪が弾丸と化して四方へ飛び散り、空中に巨大な白い花火のような模様を描き出す。 0.63秒—— MV-22Bの機内、大和勝義の真正面に、「黒い外套」が現れた。相変わらず、その中身の姿は瞳力をもってしても見通せない。ただ、外套のふくらみ方から、そいつの体つきが痩


物核「·」零 - 第七十三話 怪客
暁のころ、新二課は偵察を担当している自衛隊からの通信を受け取った。王国のナンバー3「裁定者(ジャッジ)」が、随行のおよそ二十名とともに八幡平の駐屯地を発ち、ヘリコプターで離陸したことが確認されたという。北海道到着予定時刻は、およそ二時間半後。続いて更新された情報では、彼らの向かう先も最終的に特定された。大雪山エリアの一角、「天沼(あまぬま)」と呼ばれる場所である。 その時点で、新二課が旧・大雪山国立公園一帯に潜伏してから、すでに三日が経過していた。裁定者と「第三者」が具体的にいつ接触するのかが掴めなかったため、大和勝義(やまとかつよし)は命令を受けるやいなや、全戦力を率いて前もって北海道に入り、布陣を整え、「獲物が来るのを待つ」形を取っていた。情報を得ると同時に、彼はただちに部隊の再配置に取りかかった。 狙撃班——ヴァシリーサ・ルノヴィナと霜月真白(しもつきましろ)を、それぞれ別々の高所へ展開させ、斑鳩絢(いかるがあや)には、後方の隠蔽地点に置かれた通信班と野良優(のらゆう)の護衛を命じる。 今回の作戦に特別に通信班が組み込まれたのには、大きな理


物核「·」零 - 第七十二話 三士
「上(うえ)」——つまり上層部で、いったい何が起きたのか、詳しいことを知る者はいなかった。ただ、どうやら神崎律命子(かんざきりつめこ)があらゆる伝手(つて)を総動員し、「野良優を処分せよ」という命令を押し止めたらしい、という話だけが伝わってきた。もっとも、その見返りとして提示された条件は、野良優(のらゆう)を新二課に留め、今後の任務に参加させることだった。言い換えれば、彼が「ただの人間」に戻るその瞬間まで、最後の一滴の価値まで搾り取る、ということだ。もちろん、普通の人間になったあとの野良優が、標本か実験体にされないという保証は、どこにもない。とはいえ、現時点で彼らの「約束」を信じる以外に、選択肢はなかった。 その後、新二課が再編成され、陣容を立て直していくにつれて、皆は、物事が少しずつ、しかし確実に予想外の方向へ動き始めていることに気づき始めた。 まず特別作戦部は「庁」へ格上げされ、新人類統合適性省の直轄下に置かれた。主力である三つの課をそのまま残したまま、下部組織を計十課にまで拡張。後方支援や事務部門を含めると、その人数は千人を超え、日本の自衛


物核「·」零 - 第七十一話 終局
東日本市・田之上食堂。 こぢんまりとした店内には、同時に七人が腰掛けられるだけの小さなカウンターしかないが、その席はすべて埋まっていた。霜月真白(しもつきましろ)、霊沙羅(れいさら)、アルファ嬢はもちろん、大和勝義(やまとかつよし)と斑鳩絢(いかるがあや)も顔をそろえ、そして何より——このささやかな祝宴の主役、野良優(のらゆう)がそこにいた。 ただ、一つだけ誰も予想していなかったことがある。あれほど「この件からは手を引く」と言い放った神渡夕凪(かみわたりゆうなぎ)が、しれっと店に入り込み、当たり前のような顔でカウンターに割り込んできたのだ。曰く、「辰男さんの料理を一度味見してみたくてね」。 陽菜と辰男のコンビネーションは見事なもので、二人はてきぱきと動き回り、次々と湯気の立つ料理をカウンターに並べていく。今の世の中では、物資が安定しているとはとても言えない。食材はあるときは豊富に、ないときはまるで手に入らない。そんな状況の中で、これほどの腕を持つ料理人に出会えること自体が、もはや「贅沢」と呼んでいい。目の前に並ぶご馳走に、誰もが文字どおり舌鼓を打


物核「·」零 - 第七十話 審判
座礁作戦ののち、黒星党の脅威は一挙に排除され、おまけに核弾頭を二発も"タダで"手に入れることができた。だが、その代償として、特別作戦部は致命的なまでに戦力を削られてしまった。 戦力の立て直しを急ぐため、上層部は西日本市に一人の「国宝中の国宝」を派遣する決定を下した。彼女を動かせたのは、ひとえに〈影〉たちの尽力の賜物だと言われている。そのとき彼女はちょうどアメリカの"ニュー・ホワイトハウス(新ホワイトハウス)"に招かれており、大統領みずからが、「アメリカ特別国民」にならないかと熱心に誘っていたという。しかし、彼女はその電話を受けた、その日の夜にはすでに日本へ向けて飛び立っていた。 彼女の本名を知る者はいない。誰もが、彼女のことをこう呼ぶ。 ——汐乃(しおの)婆様、と。 噂に違わず、彼女は野良優(のらゆう)にも引けを取らない力を持っていた。それは「願(がん)」と呼ばれる特質系の能力である。汐乃婆様は、あらゆる"生きた存在"を「願」に変換し、その力で第三者のあらゆる身体的損傷——精神の病をも——癒やすことができる。この能力は、どんな生命に対しても行使可


物核「·」零 - 第六十九話 願力
誰もが予想していなかった結末だった。あれほど権勢を誇った五代源蔵(ごだいげんぞう)は、最後には自分の義理の娘である霞折小町(かすおりこまち)の手によって葬られたのである。 なぜ小町があそこまで手のひらを返すような転向をしたのか、その理由をはっきり説明できる者はいない。決定的な局面で情勢を冷静に見極め、新日本政府側についた方が勝ち目があると判断したのだ、と言う者もいれば、単純に五代源蔵が核弾頭を起爆させることを恐れたのだ、という者もいる。あの距離であれば、新人類であろうと生き残るのは難しいからだ。いずれにせよ——少なくとも結果だけ見れば、小町は「正しい選択」をした。そして新日本政府も、強大な戦闘力を持つ制御系新人類を、今まさに渇望している。 とはいえ、今回の「座礁作戦」は、どう贔屓目に見ても辛勝だった。 主攻手であったヴァシリーサ・ルノヴィナは、一時は瀕死にまで追い込まれた。新一課課長・神渡夕凪(かみわたりゆうなぎ)は、落下の衝撃により重傷。統合任務部隊指揮官・大和勝義(やまとかつよし)と霜月真白(しもつきましろ)は、二度にわたる不時着を強いられ、


物核「·」零 - 第六十八話 仙戦
六十秒——せいぜい六十秒。 五代源蔵(ごだいげんぞう)が戦場の主導権を握っていたところから、戦意そのものを失うまでに要した時間は、そのたった一分にすぎなかった。いや、その途中のどこかで、彼はそもそも自分が「何」と戦っているのか分からなくなっていた。だが、これだけは理解している。この地獄じみた光景の元凶が、かつて自分が足下に踏みつけ、好き放題に嬲っていたあの少年——野良優(のらゆう)であることだけは。 最初、源蔵はそれを自分の錯覚だと思った。突如として出現した金色の巨人が、狂暴で常軌を逸した「平手打ち」を振るう。一撃ごとに、その掌の面積は一棟のビルほどもある。空を唸らせながら振り下ろされる長大な杖は、源蔵がこれまで目にしたどんな老樹よりも高く、太くそびえ立っていた。極めつけは、巨人の背後でとぐろを巻く、九条の邪悪な蛇——まさに獰猛な邪神そのものの眼で、こちらを狙いすましている。 かつて大谷派門首の指名継承者とまで謳われた五代源蔵にとって、それが何であるかを理解するのは難しくない。だが——たとえ二十年前の自分に戻ったとしても、今日この目で見せつけられ


物核「·」零 - 第六十七話 霊爆
神渡夕凪(かみわたりゆうなぎ)は、およそ20メートルの高さから地面へと叩きつけられ——それでも一つの傷さえ負わずに着地した。これは彼女自身がどれほど強靭かという話ではない。彼女が「仕える相手」が、あまりにも強大すぎるのだ。日本という国の中で、ほとんど横暴に近い力を振るえるほどに——。 八ヶ岳最後の口寄巫女(くちよせみこ)にして、神渡家ただ一人の継承者。神渡夕凪は、物心ついた頃にはすでに一族と共に八ヶ岳の幽深な山々を渡り歩いていた。彼らは山の胎内に身を潜め、地脈に沿って歩き、気の噴き出す穴を探し当てる。腹が減れば狩りをして肉を炊き、喉が渇けば「眼を開いて」泉を掘り当てる。天地の霊とともに舞い、山水万物と並んで眠る——そんな日々だけが、彼女の世界だった。 十八歳になるまで、夕凪は「日本」という国の存在すら知らなかった。現代人の暮らす社会を目にしたこともない。彼女の人生は、ただひたすら舞を練り、祝詞を唱え、霊を歌い、神を演じることだけでできていた。その暮らしが変わったのは、ある日を境にしてだ。猿女君(さるめのきみ)からの「夢のお告げ」を受け、ひと柱の強


物核「·」零 - 第六十六話 劫神
間違いなく、霞折小町(かすおりこまち)の体重と能力は、以前とは比べものにならないほど誇張された変化を遂げていた。 今の彼女は、空を飛ぶことすらできる。といっても、自分の体そのものに能力を作用させているわけではない。制御系の新人類は、自分自身に能力をかけることができない——それが原則だ。だが、小町は自分なりの抜け道を見つけた。そう、座り心地のいいマッサージチェアを一台「操作」し、その椅子ごと宙に浮かせているのだ。そうして彼女は、まるで天下に君臨する神のように、ふんぞり返って空中を移動していた。 正直なところ、今のこの姿では、自力で歩くこと自体がほぼ不可能だろう。目測では、霞折小町の体重はゆうに500キロを超えている。もし野良優(のらゆう)の視力が良くなければ、肉の山の中心部にわずかにへこんだ部分——その窪みの中に小さな顔が埋もれているのを見つけることはできず、そもそもこの存在を「人間」と呼ぶ資格があるのかどうかすら疑っていたに違いない。 かつて、骨と皮ばかりでほとんど骸骨のようだった霞折小町は、その後の「努力」によって、今やまったく逆方向の極端な姿


物核「·」零 - 第六十五話 風獣
強化系新人類「クトゥルフ」。 野良優(のらゆう)が地面に降り立つ前まで、この存在に抱いていた印象はこうだ——身体に怪物じみた特性を付与された新人類。同じ強化系とはいえ、五代源蔵(ごだいげんぞう)や風間昭三(かざましょうぞう)を超えることはまずないだろう、とも考えていた。 五代源蔵は圧倒的な攻撃力を持ち、元の肉体が死んでも、他人の身体に寄生することで生きながらえる。一方、風間昭三はさらに異常だ。強化系能力を得てから一度も「傷」を負ったことがないと言われている。つまり誰ひとりとして、やつの皮膚ひとつ破ることすらできていない、ということだ。 では、いま目の前に君臨しているこの巨大怪物「クトゥルフ」はどうか。 ——そんなに甘い話で済む相手とは、とても思えない。 戦術核弾頭一発分に相当する攻撃を、ほとんどゼロ距離で食らってなお、この化け物は死ぬどころか、さらに巨大に、さらに狂暴になった。ここまで来ると、考えられる可能性は一つしかない。五代源蔵が、麻薬を使ってこの哀れな人間を完全に支配している。いまの様子は、まさに薬物中毒者が限界を超えて錯乱している状態その


物核「·」零 - 第六十四話 墜攻
誰ひとりとして、黒星党がこんな手を隠し持っているとは思いもしなかった。かつてその「幹部」だった野良優(のらゆう)でさえ、目の前の光景に頭が追いつかない。 ——ありえない。 あれはどう見ても、霞折小町(かすおりこまち)にしか扱えない能力だ。山体ごと撃ち出された岩塊のサイズからして、一発につき少なくとも500キロ、いや、それ以上の質量があるはずだ。それを、増幅系の支援なしで連発するなど、本来なら不可能と言っていい。だが、今さらその仕組みを考えても、もはや手遅れだった。情報部が盛大にやらかしたあとというのは、決まって物事が最悪かつ理解不能な方向へ転がっていくものだ。 小町の能力によって山肌がくり抜かれたことで、『いずも』は岩の檻から解き放たれた。そして今度は自らの重量に引きずられ、山体からずるりと剥がれ落ちて、そのまま奈落へと落下していく。黒星党の本拠がある高度は、およそ2000メートル。このまま墜ちれば、新人類を除く黒星党の構成員は、まず間違いなく原形を留めないミンチになるだろう。 だが、野良優は知っている。五代源蔵(ごだいげんぞう)という男は、そう


物核「·」零 - 第六十三話 本塁
2028年四月十八日──座礁作戦が始まった。 出撃の直前、野良優(のらゆう)は大和勝義(やまとかつよし)と斑鳩絢(いかるがあや)に声をかけ、自分の増幅系能力が今はせいぜい一時間ほどしかもたないことを正直に伝えた。そのうえで二人にそれぞれ、小さな冷蔵ボトル入りの「液体」を一本ずつ手渡す。 斑鳩絢は目を丸くして、その正体に気づいた瞬間、今度は女にしか出せない色っぽい笑みを浮かべた。 「……ふうん。じゃあ、ありがたく"有効活用"させてもらうわ」 大和勝義の方は、やけに落ち着いていた。まるで、こうなることを最初から計算に入れていたかのように。もちろん、気持ち悪がる様子もない。超高知能を持つ人間にとって、それは単に「水分・糖質・タンパク質・ミネラルの混合液」に過ぎないのだろう。そして彼は、そこに野良優という人間の「個性」も見ていた。 ——二十歳を目前にしたこの青年は、自分が何かを隠したせいで、周りの人間が傷つくことだけは絶対に避けたいと思っている。 もし優が黙っていたなら、大和勝義はいつものように腕時計のカウントダウンを「二時間二十分」にセットしていただろ


物核「·」零 - 第六十二話 哭島
「座礁作戦」は、災後防衛省の直接の権限によって発動され、特別作戦部と自衛隊の共同作戦として遂行されることになった。その戦場は、九州から海を隔てて十数キロ先に浮かぶ屋久島一帯に指定されている。 もっとも、今の屋久島は、もはや鹿児島県の一町に過ぎなかったあの島ではない。巨大な陸塊に横からぶつけられ、2万平方キロに達する超巨大島嶼へと変貌していたのだ。 もちろん、それは火山噴火や通常の地殻変動によるものではない。原因は、はるか1000キロ以上も離れた海上から、大津波に乗って流されてきた「夷洲島(いしゅうとう)」である。 新日本政府はかつて調査隊を組織し、夷洲島の調査を行った。その結果、島の地下20キロの深さで、大陸棚に沿って地殻が人工的に切断されていることが判明した。さらに、島の底部には、何らかの特殊な工法による補強構造まで施されていたのである。まるで最初から、島ごと漂流させるつもりで用意されていたかのように。 地殻を20キロの深さで切断する——それがどれほど途方もない行為なのか。おそらく、人類が大災変以前に有していた科学技術ですら、到底実現不可能だっ
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