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物核「·」零 - 第七十六話 骸変
「辰男さん!」 一瞬のあいだ、野良優(のらゆう)には、数メートル先に立つ男の顔がまったく見えなかった。それが、自分が涙で前が見えなくなっているせいなのか、この世界そのものがあまりにも暗く沈み込んでいるからなのか、判然としない。ただ彼は、受け身のように、繰り返し、何度も何度も——自分がこれまで出会ってきた人たち、一人ひとりの顔を、心の中でなぞり続けていた。 どこから湧いてきたのか分からない力が、ふいに身体の奥からせり上がる。野良優は、ふらつきながらも、ゆっくりと立ち上がった。 田之上辰男(たのうえたつお)はそんな彼に向かって、軽く手を振る。 「野良君、その格好じゃ、まずは座っていたほうがいい。——それからさ、その手を、座席のひじ掛けのところに置いてくれないか。さっき奴らが言っていたが、この装置がお前の"特別な力"を、俺たち一人ひとりに分けてくれるらしい」 その言葉を聞いた瞬間、説明のつかない脱力感が、肉体と精神の両方を引き裂くように襲ってくる。野良優は、ひじ掛けを力いっぱい握りしめた。ひじ掛けに埋め込まれた緑色のリングが、時計回りに回転を始める。数


物核「·」零 - 第七十五話 代価
重傷を負った野良優(のらゆう)は身動きひとつ取れず、目の前に並ぶ一隊の兵士たちを、なすすべもなく見上げていた。彼らは全身フル装備、顔まですべて戦術ヘルメットに覆われている。兵士たちは、奇妙な装置を取り出して野良優に向ける。先頭の男が、短く号令を発した。 「座標校正! 信号リンク! 起動——!」 「神崎次官、こちらが野良優の最終スキャン・レポートです。遠隔医療部の判定では、今すぐ帰還させても救命は不可能とのことです」 通信機越しに返ってきた声は、電子妨害のノイズにまみれ、ところどころ途切れながら響く。 『……どうしてこんなことに? あなたたち、特殊部隊として彼をモニタリングしていたのでしょう?』 「新二課が攻撃を開始した直後、出所不明の反撃を受けました……。未知の敵が、四か所に展開していた新二課の各部隊をほぼ同時に叩いたようです。我々が到着した時には、すでにこの有様で……」 『何ですって? そんな馬鹿な……。斑鳩絢(いかるがあや)は? 彼には野良優を護衛させていたはずでしょう?』 「行方不明です。我々の判断では、爆散して肉片レベルになったものと思わ


物核「·」零 - 第七十四話 全滅
天沼(あまぬま)から直線距離にして19キロ。高度二万五千フィートの上空。 大和勝義(やまとかつよし)の主観的な感覚では、あの不可解な光景を目撃してから、およそ半秒が経過していた——正確には、0.31秒。ほぼ、トンボが獲物を捕食するときの反応時間に等しい。 生物学において、0.3秒という値は、神経系と筋肉反射の臨界値であり、「意識が介入する動き」と「本能的な反射」の境界線でもある。また現代の製造業においては、効率と精度のバランスが保てる基準値であり、人間と機械が協調できる反応速度の限界でもある。強化系新人類である大和勝義であっても、強化されていない身体機能に関しては、この生命のルールからは逃れられない。 0.31秒—— 彼は、アルファの潜む狙撃地点で爆発が起きるのを見た。空へと舞い上がった大量の雪が弾丸と化して四方へ飛び散り、空中に巨大な白い花火のような模様を描き出す。 0.63秒—— MV-22Bの機内、大和勝義の真正面に、「黒い外套」が現れた。相変わらず、その中身の姿は瞳力をもってしても見通せない。ただ、外套のふくらみ方から、そいつの体つきが痩


物核「·」零 - 第七十三話 怪客
暁のころ、新二課は偵察を担当している自衛隊からの通信を受け取った。王国のナンバー3「裁定者(ジャッジ)」が、随行のおよそ二十名とともに八幡平の駐屯地を発ち、ヘリコプターで離陸したことが確認されたという。北海道到着予定時刻は、およそ二時間半後。続いて更新された情報では、彼らの向かう先も最終的に特定された。大雪山エリアの一角、「天沼(あまぬま)」と呼ばれる場所である。 その時点で、新二課が旧・大雪山国立公園一帯に潜伏してから、すでに三日が経過していた。裁定者と「第三者」が具体的にいつ接触するのかが掴めなかったため、大和勝義(やまとかつよし)は命令を受けるやいなや、全戦力を率いて前もって北海道に入り、布陣を整え、「獲物が来るのを待つ」形を取っていた。情報を得ると同時に、彼はただちに部隊の再配置に取りかかった。 狙撃班——ヴァシリーサ・ルノヴィナと霜月真白(しもつきましろ)を、それぞれ別々の高所へ展開させ、斑鳩絢(いかるがあや)には、後方の隠蔽地点に置かれた通信班と野良優(のらゆう)の護衛を命じる。 今回の作戦に特別に通信班が組み込まれたのには、大きな理


物核「·」零 - 第七十二話 三士
「上(うえ)」——つまり上層部で、いったい何が起きたのか、詳しいことを知る者はいなかった。ただ、どうやら神崎律命子(かんざきりつめこ)があらゆる伝手(つて)を総動員し、「野良優を処分せよ」という命令を押し止めたらしい、という話だけが伝わってきた。もっとも、その見返りとして提示された条件は、野良優(のらゆう)を新二課に留め、今後の任務に参加させることだった。言い換えれば、彼が「ただの人間」に戻るその瞬間まで、最後の一滴の価値まで搾り取る、ということだ。もちろん、普通の人間になったあとの野良優が、標本か実験体にされないという保証は、どこにもない。とはいえ、現時点で彼らの「約束」を信じる以外に、選択肢はなかった。 その後、新二課が再編成され、陣容を立て直していくにつれて、皆は、物事が少しずつ、しかし確実に予想外の方向へ動き始めていることに気づき始めた。 まず特別作戦部は「庁」へ格上げされ、新人類統合適性省の直轄下に置かれた。主力である三つの課をそのまま残したまま、下部組織を計十課にまで拡張。後方支援や事務部門を含めると、その人数は千人を超え、日本の自衛


物核「·」零 - 第七十一話 終局
東日本市・田之上食堂。 こぢんまりとした店内には、同時に七人が腰掛けられるだけの小さなカウンターしかないが、その席はすべて埋まっていた。霜月真白(しもつきましろ)、霊沙羅(れいさら)、アルファ嬢はもちろん、大和勝義(やまとかつよし)と斑鳩絢(いかるがあや)も顔をそろえ、そして何より——このささやかな祝宴の主役、野良優(のらゆう)がそこにいた。 ただ、一つだけ誰も予想していなかったことがある。あれほど「この件からは手を引く」と言い放った神渡夕凪(かみわたりゆうなぎ)が、しれっと店に入り込み、当たり前のような顔でカウンターに割り込んできたのだ。曰く、「辰男さんの料理を一度味見してみたくてね」。 陽菜と辰男のコンビネーションは見事なもので、二人はてきぱきと動き回り、次々と湯気の立つ料理をカウンターに並べていく。今の世の中では、物資が安定しているとはとても言えない。食材はあるときは豊富に、ないときはまるで手に入らない。そんな状況の中で、これほどの腕を持つ料理人に出会えること自体が、もはや「贅沢」と呼んでいい。目の前に並ぶご馳走に、誰もが文字どおり舌鼓を打


物核「·」零 - 第七十話 審判
座礁作戦ののち、黒星党の脅威は一挙に排除され、おまけに核弾頭を二発も"タダで"手に入れることができた。だが、その代償として、特別作戦部は致命的なまでに戦力を削られてしまった。 戦力の立て直しを急ぐため、上層部は西日本市に一人の「国宝中の国宝」を派遣する決定を下した。彼女を動かせたのは、ひとえに〈影〉たちの尽力の賜物だと言われている。そのとき彼女はちょうどアメリカの"ニュー・ホワイトハウス(新ホワイトハウス)"に招かれており、大統領みずからが、「アメリカ特別国民」にならないかと熱心に誘っていたという。しかし、彼女はその電話を受けた、その日の夜にはすでに日本へ向けて飛び立っていた。 彼女の本名を知る者はいない。誰もが、彼女のことをこう呼ぶ。 ——汐乃(しおの)婆様、と。 噂に違わず、彼女は野良優(のらゆう)にも引けを取らない力を持っていた。それは「願(がん)」と呼ばれる特質系の能力である。汐乃婆様は、あらゆる"生きた存在"を「願」に変換し、その力で第三者のあらゆる身体的損傷——精神の病をも——癒やすことができる。この能力は、どんな生命に対しても行使可
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