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物核「·」零 - 第六十話 夜襲
「より多く接触せよ」——その四文字が意味するものは、字面以上に重かった。単に「もっと触れろ」という命令ではないことなど、言われるまでもない。 ヴァシリーサの顔から、すっと血の気が引いていく。彼女は背中を壁に預け、そのまましばらく動かなかった。狭い部屋を見回す。床に直置きされたマットレスが一枚と、取っ手付きのキャンバスバッグがひとつ。バッグは私物で、マットレスは公費支給品だ。もともと、この部屋には最低限の家具や家電が揃っていた。だが、それらはすべて質に入れてしまっている。今の彼女の全財産で、いちばん値の張るものは、たった一台の携帯電話だけだった。 「Allô ? — Infirmière Madeleine ? C'est moi… Vassilissa.」(もしもし——マドレーヌ看護師長? 私、ヴァシリーサです……) 「Oui, oui, je suis au Japon. Je vais bien, ne vous inquiétez pas pour moi. Hmm… papa… comment va mon père ?」(ええ、ええ、日


物核「·」零 - 第五十九話 借兵
自らを「アルファ」と呼ばせることを好むヴァシリーサ・ルノヴィナは、制御系の新人類である。性格は派手で尊大、いわゆるツンとした気質だが、戦闘能力という一点においては、彼女の言う「ヨーロッパ一」は決して誇張ではない。 報告書によれば、アルファの能力は極めて特異である。半径4キロメートル以内、体積 0.001 立方メートルまでのあらゆる実体をエネルギー化し、その状態を維持できる。エネルギー化された対象は外見こそ元のままだが、内部構造は完全にエネルギー場へと置き換えられる。そして、その解放・消散を行えるのは彼女本人のみである。 操作可能距離は半径4キロメートル。この数値はほぼ人間の水平視界の限界に相当し、これ以上離れると地平線の曲率によって視認すら困難になる。なお、実体がエネルギー態へ移行する過程については、これまでの研究でも統一見解は得られていない。ただし確かな事実が一つある——一度エネルギー化された対象を操作できるのは、特定の神経周波数、すなわちヴァシリーサ固有の信号のみであるという点だ。 多くの研究者は、この現象を次のように推測している。まず物質場


物核「·」零 - 第五十八話 斬断
霊沙羅(れいさら)の背中に、何かがドン、とぶつかった。その衝撃で彼女は目を覚まし、振り返る。そこに倒れていたのは、意識をウサギに書き換えられた女性研究員の一人だった。 横を見ると、神崎律命子(かんざきりつめこ)が床にしゃがみ込み、にこにことこちらを見つめている。なぜだか、その十三歳の少女の瞳からは、先ほどまで漂っていた冷たさや高圧的な気配が、わずかに薄れているように見えた。 「沙羅さん、私の任務はもう終わり。あなたたちには問題なし——上の取り越し苦労だったみたいね」 「え……? 野良くんは……?」 野良優(のらゆう)の顔が、霊沙羅の脳裏に浮かぶ。彼女は慌てて首を伸ばし、隔離区画の方をのぞき込んだ。防弾ガラス越しに見えるベッドの上で、野良優は穏やかな寝息を立てている。その様子に、霊沙羅は一瞬、言葉を失った。 「……さっきのは、いったい何だったの? あなたたち二人……」 「何も起きてないわよ。ぜんぶ幻覚。……まあ、あなたと彼については少しだけ例外だけど。ふふ」 霊沙羅の表情が、わずかに引きつる。 「"例外"って、どういう意味? あなた、まだ十三歳でし


物核「·」零 - 第五十七話 起源
神崎律命子(かんざきりつめこ)の理論によれば、物核は生物が「霊智(れいち)」を持っているかどうか、そしてその強度を判定し、その結果に応じて転化の度合いを決めている。そして、新人類へと"順当に"変換されうる対象は、同時に次の五つの転化基準を満たしていなければならないという。 一つ。ただ思考できるだけでなく、「自分が思考していることを自覚できる」こと。 二つ。自身の存在に対して疑問を投げかける能力を持ち、かつ自身の存在が可逆的でありうることを理解していること。 三つ。内なる神性を持つと同時に、外なる神、あるいは自分自身を信仰していること。 四つ。「道徳的シミュレーション能力」を備え、いかなる第三者(非生命を含む)の苦しみに対しても、プログラムに依らない反応を示せること。 五つ。感情的共鳴の能力を備え、いかなる第三者(非生命を含む)に対しても感情を抱けること。 これら五つは、彼女が先ほどまで語っていた霊智に関する学術的論点のような、形而上の抽象論ではなかった。むしろ、ずっと現実的で、運用すら可能な基準に見えた。 正直なところ、この「転化の五大要件」を聞


物核「·」零 - 第五十六話 昇華
「霊沙羅さん、あなたはやっぱりどこか"違う"わね」 「神崎さん、買いかぶりすぎですよ」 「ふふ。それで私の"能力"、気にならない?」 「制御系。おそらく、意識を書き換える類の能力……でしょうか」 「やっぱり、どこか姉さんに似てる。ほんと、よくできた人ね」 「神崎さんには、お姉さんが?」 「うん。死んだけど」 「……それは、失礼しました。そんなことまで聞くべきじゃなかった」 「気にしないで。殺したのは、この手だから」 「……え?」 「変異体に変わり果てた、あの姿がどうしても嫌だったの。私の姉は、いつまでも美しくて、聡明で、何でもできる人。絶対に、あんな気味が悪くて醜い変異体なんかじゃない」 霊沙羅(れいさら)には、この言葉をどう受け止めればいいのか分からなかった。三原部長から「特別作戦部で一番有能な女」と呼ばれていても、答えの出せない問いはいくらでもある。彼女にできたことは、話題をそらすことだけだった。 「……神崎さん。野良優は『半球』からはすでに離脱していますが、本人はまだ昏睡状態です」 「問題ないわ。生きてさえいれば虫の息でも、私の能力には抗え


物核「·」零 - 第五十五話 律命
霊沙羅(れいさら)は、ようやく眠りについたところを緊急電話で叩き起こされ、30分後には特別作戦部の会議室に到着していた。電子スクリーンには、災後防衛省で開かれている緊急会議の場にいる特別作戦部部長・三原の姿が映し出されている。その表情は暗く沈んでいた。 「『清算行動』において発生した、臆戦・拒戦などの状況を鑑み、次長から、新人類防衛課の全隊員に対して紀律審査を行うよう、先ほど命令が下った。君には少々酷な役回りだが、非常時ゆえ、致し方ない」 「理解しています、部長。それで、どのように行われるのでしょう? 脳波探査か、心理テストでしょうか……」 「どちらでもない。災後防衛省は、磐梯山で建設中の新東京市から"特別委任使"を派遣することになった」 「えっ? 特別委任使……?」 そのとき、部長は突然画面の外へと姿を消し、スクリーン越しに、途切れ途切れの声が聞こえてきた。 「む……何だって? もう到着した?……はい、次長! すぐに手配します!」 やがて三原部長が再び画面に戻ってくる。 「特別委任使は、すでに西日本市上空に到達した。およそ3分後に着陸予定だ。霊


物核「·」零 - 第五十四話 価値
野良優(のらゆう)は、あらかじめ用意されていた移動式ベッドの上に、仰向けに横たわっていた。呼吸は穏やかで、顔色も安らかだ。月無双が展開している「幻界(イリュージョン・レルム)」と呼ばれる奇妙な空間の中で、マリア・ジェシン博士は、物核『半球』と野良優のあいだを行ったり来たりしながら、大忙しで、それでいてどこか楽しそうに作業を続けていた。 全身MRI……骨格に異常なし、臓器構造に異常なし 正常 PETスキャン……代謝に異常なし、エネルギー活性領域に異常なし 正常 細胞スペクトル解析……外来エネルギー検出されず、構造変化もなし 正常 質量分析……未知のタンパク質検出されず、未知のシグナル分子も検出されず 正常 多項生化学検査……免疫反応に異常なし、重金属検出されず、放射性物質も検出されず 正常 メタゲノム・スキャン……未知の病原体検出されず、未知の共生体も見つからず 正常 次世代シーケンス……変異は一切検出されず、登録済みデータと100パーセント一致 正常 多チャンネル脳波図……異常周波数なし、外部からの干渉痕なし 正常 電気生理測定……神経強化の兆候
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