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物核「·」零 - 第零話 異種

8月10日
読了時間: 4分

野良優(のらゆう)は、長く引き伸ばされた夢の底に沈んでいた。頭は割れるほどに痛み、喉は焼けつくように乾いている。

カン。……カン。

泉水が金属を打つ、重く鈍い音が耳の奥で反復する。その音が乾きを呼び覚まし、乾きが意識を引きずり上げた。

視界に入ってきたのは、灰緑色のテントと、泥が厚く塗りつけられ無数の穴が穿たれたビニール壁だった。行軍ベッドの向こう側、こちらに背を向けた小柄な人影がある。乱れた髪、細く白い腕。少女だ。下半身はベッドに隠れているが、姿勢からして地面にしゃがみ込んでいるとわかる。金属音は少女の足元から、チン、……チンと鈍く規則的に鳴り続けていた。排尿音だ。曖昧さはなかった。

声を出そうとしたが、身体は動かない。喉も声帯も麻痺し、言葉は形成されなかった。ただ目を開いたまま、少女が立ち上がるのを見ていた。ズボンが引き上げられた、その瞬間——

「あっ!!」

甲高い悲鳴が、破裂音のようにテント内を切り裂いた。

「猫男が起きたっ!?」

猫男? 思考が追いつかない。滲む視界の中、暗いはずの内部が異様に眩しく映る。それでも少女は、迷いのない足取りで距離を詰めてきた。だぼついたTシャツの襟元から、まだ幼く未成熟な胸部が露わになっている。見えていた。

「陽菜さんが言ってた。あんたが目を覚ましたら、もう死なないって」

差し出されたのは、機械油の注ぎ口のような形状の容器だった。野良は掴むと、一壺分を喉へ叩き込むように飲み干した。足りない。さらに半壺。焼けついていた喉が潤い、体に力が戻ってくる。肺いっぱいに空気を吸い込んだ。生きている。

「……ここは……どこだ……」

「しゃべらない。まだダメ。いいから、聞いて」

「……うん」

「ここは第七自救保護区(だいなな・じきゅう・ほごく)。四ヶ月前、京都・八瀬猫猫寺(やせ・にゃんにゃんじ)で、陽菜さんがあんたを見つけた。切れかけたロープの先で、木にぶらっていた。口の中でずっと、『朝倉先輩……』って」


2026年5月——未知の星体が地球に衝突した。それを起点として、世界は史上例のない大海嘯(つなみ)に呑み込まれた。災厄は十日十夜に及び、世界人口の95%以上が消失した。日本も例外ではない。海は引いたが、国土の約八分の一が失われた。

政府は残存地域で活動を再開し、生存者を集めて秩序を再建しようとした。だが、それは一瞬で崩れた。赤城山に設立された東京都避難所が即座に武装集団の襲撃を受け、大流血事件となった。続いて、最後に残っていた長野の自衛隊(じえいたい)本部が、原因不明の存在により壊滅。通信網が部分復旧した直後、各地の避難所から救難信号が相次いだ。人々はそのとき悟った。自分たちが直面しているのは、人間ではない何かなのだと。

報告された対象は、形態・能力ともに共通性を欠く不定形の怪物群だった。火砲、ミサイル、すべて無効。殺害は不可能と判断し、軍は作戦行動を放棄した。数十日のうちに避難所は次々と破壊され、生存者は逃走するほかなかった。国民を保護できなくなった瞬間、政府は崩壊した。一度失われた権威は、二度と戻らなかった。

混乱期、生存者は互いに助け合いながら辛うじて日々を繋いでいた。『超酸(ちょうさん)』が敵を退けられると発見されるまでは。発見、即時の武装化、防衛規約の制定——秩序は、そこから成立した。政府の号令は無効となり、各地は自立して独自の規則を定めた。その必然として、公平原則を基礎にした保護区同盟が形成される。日本には現在、約二十万人規模の大型自救保護区が九つ、そして周囲には無数の小規模共同体が存在していた。

人々は怪物に名を与えた。「異変種(いへんしゅ)」。自衛隊内部報告書に由来する呼称だ。同報告はさらに、大海嘯の原因が地外起源の落下体である可能性を示していた。日本上空に出現した異物は、「槍」と命名された。

「槍」は減速し、飛騨山脈上空で三十秒間停留した後、消失。直後、宇都宮市上空に出現し、津波到達前に五十万人を殺害した。後日、槍ヶ岳標高三千メートル地点で登山者八名の遺体が確認されたが、本来の人数は九名。一名が、消えていた。

ほぼ同時期、宇都宮市周辺で異変種との初接触が記録された。分析の結果、それは生物でも人間でもなく、人類が想定し得るいかなる既存の存在にも該当しないとされた。ただし一点、異変の途中段階にある「変種」が確認されていた。外見は完全に人間——佐藤清志(さとうきよし)、三十一歳、建設作業員、栃木県宇都宮市今泉三丁目在住。どこからどう見ても、完全な一般人だった。

噂が拡散する。「異変種の源は男だ」。根拠のない風説だった。だが、それは多くの保護区で成人男性の追放を招いた。第七自救保護区だけは違った。人口の99.98%が女性である。野良優が生存を許された理由は明確だ。少年と成人男性の境界年齢にあること、そして将来的に「種子」と見なされたためである。

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