物核「·」零 - 第一話 繁種

「実はね、陽菜さんが言ってたの。第七自救保護区は前に、ほかの保護区と『男性を何人か引き取れないか』って交渉したことがあるんだって。そしたら向こうがさ、『物資と交換なら』とか言い出したのよ。正気とは思えない、法外な条件をね。だから交渉は、きれいさっぱりご破算!」
「まぁ当然よ。今の世界じゃ、男なんて価値がない。そんな存在を引き取るだけで十分なのに、物資まで要求するなんて、完全なぼったくりでしょう?」
野良優(のらゆう)は、言葉を失っていた。喉がまだうまく動かないせいもあった。だがそれ以上に、目の前で淡々と語られる「この世界の常識」が、彼の人生で最も恐ろしい現実だったからだ。
俺は、こんな世界を生き延びてしまったのか。
これが、「モブ生存法則」なのか。どんな災厄でも、なぜか価値のない者ほど生き残る。しかも、何の意味もなく。
外から足音が近づいた。粘りつくような声が、先に聞こえてくる。
「真白ちゃん、まだあのガキの世話か?」
下品な男が顔を出しかけた瞬間、鋭い声がそれを遮った。
「田(でん)さん。あなたは四階担当。規則を破るつもり?」
男は何も言わず引き下がった。代わりに現れたのは、背筋の伸びた女性だった。
「起きたのね。よく生き残ったわ。真白ちゃん、薬は?」
「忘れてた!」
真白は箱から錠剤を二粒取り出し、野良の手に置いた。
「K2とB8。異変化人が『あちら側』へ堕ちていくのを、遅らせると言われている」
陽菜は静かに続けた。
「第七自救保護区にいる男性は三十四人。女性は十七万人以上。様々な条件を除外した結果、生殖可能と判断された男性は、十八人だけ」
言葉が、はっきりと胸に突き刺さる。
「だから、あなたたち十八人にとって、ここは天国に『見える』。働かなくていい。食料も保証される。ただ一つの役目を果たす限りはね」
陽菜は淡々と告げた。
「一年間で、三千人。それが終われば、役目も終わる」
野良の背中を、冷たい感覚が走った。一年の特権。数量目標。その先は、死。それは天国ではない。天国の顔をした、処理施設だ。
「真白ちゃん、貓男のこと、どう思う?」
陽菜が問う。真白は野良をじろりと見た。
「好みじゃないけど……十一ヶ月分の追加配給がもらえるなら、まあ」
野良は悟った——真白がだらしなく胸元を緩めていたのは、最初からこちらを誘っていたのだ。
どこからか湧き上がる力に押されて、彼は口を開いた。
「俺は……嫌だ」
真白が跳ね起き、目を見開く。
「は! このあたしに選ばれるだけで、あんたには身に余る幸運なのよ!」
だが、その視線がふと陽菜の胸元に留まり、何か思いついたように尋ねる。
「陽菜さん……男って、胸が大きい方が好きなものなの?」
陽菜は小さく吹き出した。
「あら……残念ながら、私は子供が産めない体でね。だから調整官なんて割に合わない仕事をしているのよ。貓男が言いたいのは——きっと、どっちも願い下げ、ってことでしょ」
その言葉と同時に、真白が狭い簡易ベッドに飛び乗ってきた。至近距離で体重をかけられ、野良は身動きが取れなくなる。だぼついたTシャツの襟元がずり落ち、細い肩と鎖骨があらわになっていた。
——待て、こいつ、下にちゃんと何か着てるのか……?
「貓男! 聞くけど、本当に誰も選ばないつもり!? 三千人の女よ、三千人!」
野良は頷き、ようやく声を絞り出した。
「俺は……ただ、生き延びたいだけだ……」
陽菜が固まった。
真白も固まった。
「できることなら、何でもします。だから……薬を、ください」
陽菜が思わず噴き出し、声を上げて笑った。
「あの薬が効くなんて、私は一言も言ってないわよ。どこの自救保護区でもそう噂されてるだけで、こっちも念のため、って程度」
真白はますます頬を膨らませる。
「貓男、あたしに魅力がないってこと? ねぇ?」
陽菜が真白の肩を軽く叩く。
「はいはい、お疲れさま。貓男には三日、考える時間をあげる。それでも気持ちが変わらないなら、四日目の朝、あなたが三号区域の回収作業へ連れて行きなさい」
そして、整った顔を野良に向け、表情を引き締める。
「あなたの報告書、受け取ったわ。生存の苦しさに耐えられなくなったら、気も変わるでしょう。ただし——一度働き始めたら、手を抜くことは許さない。さぼれば配給を減らすからね」
第七自救保護区の基本配給は、一日一食。麺か米粥に、缶詰と野草を添えたものだ。たまに卵が出ることもあるが、今や卵さえ貴重品で、順番に行き渡らせるしかない。
肉に関しては、わずかに残る肉の缶詰備蓄を除けば、ほとんど手に入らない。光岳(ひかりだけ)の北に位置する第四自救保護区との家禽取引でさえ、護衛に付いていた元自衛隊員が三人殺され、七人が負傷したうえで、荷ごと奪われている。
終末の時代、食料をめぐる争いは日常茶飯事だった。だが、人が食料を奪い合うのは、生き延びるためというより——誰もが「そこ」まで堕ちたくないという一心からだった。
人を食う、という一線を越えること。それが、越えてはならない「あの一線」なのだ。
そして今のこの世界では、食料を奪わない限り、残された道は「あの一線」を越えることしかない。
真白の話では、陽菜は歴史学を専攻していたという。日本人が最後に大規模な人肉食に手を染めたのは、今からわずか八十年前のことだ。それを深く理解しているのは、おそらく陽菜くらいのものだろう。
だからこそ、陽菜のような聡明な女性が調整官——ほぼ補給部長に相当する役職——を務めていることは、第七自救保護区の全員にとって幸運だった。彼女は、この保護区の中で数少ない、人間の暗部を正しく理解している人間の一人だったからだ。
一方、野良優の下した、誰の目にも愚かとしか映らない選択にも、彼なりの内的論理があった。
彼が最も得意とするサバイバル系ゲームの経験則によれば、終末の時代において、向こうから転がり込んでくる「うまい話」には、必ず代償が伴う。
その代償が具体的に何であるかまでは分からない。だが野良優自身にとって、今のこの状況で生き延びるためにまず必要なのは、「簡単に手に入りそうな利益」を拒むことだった。
ゲーマーとして彼が知る、たった一つの真理。サバイバルゲームであれ、終末の現実であれ、クリアするための唯一の目標は「生存」そのものである。
「生存」というただ一点を前提にしたとき、十八歳の野良優は、自分がこの世界で唯一得意とすることを見つけたのかもしれなかった。

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