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物核「·」零 - 第十三話 悪夢
霜月真白(しもつきましろ)の顔は汗と紅潮で濡れていた。だが、それは激情ではない。極度の恐怖と薬物反応による生理的変化だった。彼女は野良優(のらゆう)のすぐ前、拘束具に縛られたまま座らされている。背筋は強張り、指先は痙攣するように震えていた。 「……猫男……見ないで……」 声はかすれている。それを聞いた瞬間、野良優は理解した。ここは実験室だ。自分たちは被験体だ。黒星党——胸の奥で、怒りと焦燥が同時に沸き上がる。それと同時に、全身の皮膚の下で説明不能な痒みが爆発した。 「……やめろ……真白に触るな……!」 叫んだ瞬間、身体が勝手に跳ねた。筋肉が意志と無関係に収縮し、関節が軋む。皮膚の内側を、無数の針が這い回る感覚。野良優は床に崩れ落ち、自分の身体を制御できなくなった。 「時間ぴったりだな」 男の声。冷たい笑い。 「三分だ。予測通り」 「野哥、ほんと計算どおりっすね」 二人の男が、野良優を見下ろしている。 「聞いたぜ、新人類。三分以内にこの反応が出なきゃ、次は増量だった」 「耐えたら次は三十分。それまで意識を保てたら、注射は一回で済む」 命令口調。選択


物核「·」零 - 第十二話 地獄
実のところ、野良優があの「化石」と呼ばれるものを見つけるよりずっと前に、彼の身体はどこかおかしかった。 どこが、とは言えない。ただ、ずっと内側で何かがずれている——例えるなら、トイレを我慢して眠りに落ち、夢の中で一度は全部出し切ったはずなのに、目が覚めたら、まだ中身が満載のまま残っている。そんな、奇妙な生理感だ。不安でも恐怖でもない。ただ「自分の体が自分のものじゃない」感じが続く。 彼は両腕の中に、二つの小さな身体を抱えていた。 そのうち一人は、痙攣するように小刻みに震え、時々ひゅっと息を引きつらせる。もう一人は——熱を持ち、硬くなり、膨れ上がっていく。鼓動に合わせて形が変わり、そして、はっきり臭気を放ち始めた。 次の瞬間、潜水艦が地表へ叩きつけられた。天が鳴り、地が揺れ、天地が震えた。金属が軋み、骨に響く振動が何度も連なって、意識がぶつ切りにされる。野良優の視界は白く弾け、闇に落ちた。 冷たい。 静かだ。 死んだみたいに静かだ。 遠くから声が聞こえる。煙みたいに掠れた、老いた男の声。 「一度に三つも手に入れたというのに……。ひとつは壊れた。残り


物核「·」零 - 第十一話 侵攻
武田隊長の朗々とした声は、叫ぶ群衆の中にかき消されていった。恐怖が広がると、人は目の前の光景に冷静でいられなくなる。左右から挟み込むように襲いかかってきたのは、二体の巨大で異様な異変種だった。 まず現れた「そいつ」は身長およそ四、五メートル。姑息に「それ」と呼ぶよりほかにないその存在は、かろうじて人型を保っている。四肢と胴体は識別できるが、頭部が存在せず、全身に触手のような鞭毛が生えていた。ぱっと見では「無頭怪」としか呼べない代物だった。 一方、退路を完全に塞いだ異変種はさらに奇怪である。極めて巨大で、まるで巨大な布のようだ。表面は灰色がかっており、皮膚の下で何かが蠢き、波打っている。正面から見ると灰色の深淵のように見え、地平線近くからゆっくりと立ち上がると、人々の視界をほぼ覆い尽くした。 先に攻撃を仕掛けたのも、この異変種だった。高さを利用し、高くそびえる体を前に倒して、数百平方メートルもの土地を一気に覆い尽くす。人も、装備も、物資も、もろともに。 しかし人々は、ここで驚くべき事実を知る。この「灰色の布毯」のようなものは極めて薄く、厚さはせいぜ


物核「·」零 - 第十話 陰謀
地下作業の影響に加え、潜水艦もコンテナ船も大きく傾いていたため、女の国がこれほどの大部隊を投入しても、撤退時刻までに引き上げられたのはトマホーク数発と一部の魚雷だけだった。最終的に、およそ6発の魚雷が潜水艦内に残され、それらは翌日に回収する計画に回された。 しかし、潜水艦内部を捜索した隊は大漁だった。多数の銃器や弾薬のほか、女の国は133人が少なくとも60日間は生き延びられるだけの食料を手に入れた。乾燥食品、缶詰、飲料水が山ほど含まれている。冷凍庫にあった腐敗しかけの冷凍ステーキ、鶏胸肉、魚の切り身、冷凍野菜なども、すべて回収された。これらは畑にとって極上の肥料になる。しかも冷凍庫の性能が高かったおかげで、ほとんどの冷凍品はまだひんやりと冷たく、完全にはダメになっていなかった。 一言で言えば、女の国はこの一度でとんでもなく得をしたのである。 戦利品を満載した大部隊は意気揚々と帰路についたが、女の国の境界哨所に差し掛かったところで異変に気づいた。自救区の方向から、濃い煙がいく筋も立ち上っていたのだ。全員の胸中に不吉な予感が走り、武田隊長は顔色を変え


物核「·」零 - 第九話 漩渦
YANG MING(陽明海運 / YM Wellhead)コンテナ船、第4層甲板。 重力を基準にした垂直座標で数えれば、ここは「地下4層」にあたる。 そこは暗闇だった。半年間密閉され腐敗した船員の遺体の悪臭がこもり、音は分厚い鋼鉄と泥に吸い込まれるように薄い。 「貓男」野良優、霜月真白(しもつきましろ)、砂糖愛の三人は、互いの傷に簡単な包帯を巻き合い、肩を貸し合って暗闇の奥へ進んだ。真白と砂糖愛が懐中電灯を持ち、野良優が先頭で手足を使い、滑る床を確かめながら道を切り開く。 第4層に到達すると、砂糖愛はバックパックから油圧拡張鉗を取り出し、船長室の艙門に噛ませた。ギリギリと金属がきしむ音がして、重い艙門は案外あっさりとこじ開けられた。だが、徹底的に捜索したあとで、三人はそろって肩を落とした。衛星電話は見つからなかった。 いや、「もともと存在しなかった」という意味ではない。本来、衛星電話が設置されていたはずの場所が、きれいに空っぽになっていた。 砂糖愛は深いため息をつき、苦笑いを浮かべた。 「こうなる可能性も考えてた。油圧拡張鉗を作るって名目で、黒星


物核「·」零 - 第八話 深淵
野良優は銃声を聞いたことがあった。以前、女の国の守備隊が、銃声を使って異変種を引き離すのを目撃していたからだ。 だが弾丸が眉のあたりをかすめ、頭皮を裂いた瞬間、彼は銃の恐ろしさを痛感した。熱が走り、血が噴き出す。激痛と鮮血が一度に押し寄せ、頭頂で花火が爆ぜたようだった。反射的に手が緩み、そのまま落ちかける。 その直後、幼い声が闇を切り裂いた。 「誰!!!」 砂糖愛だ。 「愛さん! 撃たないで! 僕だ!!」 「優?……優くんなの?!」 「そうだ!」 野良優が答える前に、もう一つの声が飛び込んできた。 「先に話は置いといて、あんたはここで何してるの?!」 「あっ! 真白ちゃん!……違う! 動かないで!」 「はぁ? 撃つなんて何考えてんのよ! 子供が銃を弄ぶな! 手を離せ!!」 「違う!……これは……これは……」 音だけで分かった。真白と砂糖愛が取っ組み合っている。この状態で暴発すれば、ただでは済まない。 野良優はハッチの縁を乗り越え、よろめきながらも前へ突っ込んだ。懐中電灯が狭い通路を掃き、やがて二人を照らし出す。 真白はすでに砂糖愛を組み伏せていた


物核「·」零 - 第七話 転折
泥酔していたにもかかわらず、武田直子(たけだなおこ)は翌朝五時ちょうど、女の国の門前に現れた。朝日が赤らんだ頬を照らしている。 「諸君、今日もよろしく頼む。全員、出発!」 「おおおっ!」 野良優(のらゆう)は真白と砂糖愛という両側からの護衛のもと、二時間の移動をあっという間に終え、三号区域へ到着した。 奇妙な変化が起きていた。野良優が「幸運の女神」という言葉を口にして以来、その考えを支持する者が増え続け、いまや大多数がそう信じるようになっていた。 砂糖愛は回収隊の正式な一員ではなかったが、たとえ先天性の「富貴病(ふうきびょう)」を患っていても、女の国の住民である以上、配給を得るには一定量の労働が必要だった。だから回収隊への同行を自ら申し出た。表向きの理由はそういうことになっている。だが霜月真白(しもつきましろ)に言わせれば、話はまったく別だ。 大小姐たる真白は、高い場所で通用する「独占」という概念をよく理解していた。四ヶ月間世話してきた相手を、無償で他人に渡すつもりはない。資本家の娘は、命をかけて守ると決めたものを手放さない。損をする取引は、絶対
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