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あなたと私の「自由」は、同じものではない。

更新日:5月8日


私はXで作家アカウントを開設して数ヶ月になる。

システムが推薦する作家の投稿が増えるにつれ、私はどうしても理解できない現象に気づいた。

西洋の作家たちはよくこんな投稿をする——「作家としてあなたが最も大切にするものは?」という質問で、「創作の自由」が選択肢に入っている。

あるいは「もし創作の自由が保証されるなら、あなたはXXXしますか?」のようなものだ。


これらの投稿を見て、私は笑いたくなかったが、笑わずにはいられなかった。

自由の地に生まれながら、自分には自由がないと信じている。

その論理は、いったいどこから来るのか?


やがて私は理解した。

私たちにとっての「創作の自由」は、根本的に次元が違うのだ。


多くの西洋作家にとって、「創作の自由」とは、主に編集者や出版社から過度に干渉されないことだ。

彼らは大綱を変えろ、人物を変えろ、結末を変えろと言われるのを嫌い、それを「個人の創作への侵害」とみなす。

彼らは「指図を受けないこと」を自由の最高形態と信じ、時にはそれを「インディーズ出版の魅力」とまで言う。


だが私から見れば、それは「創作の自由」とはほとんど関係がない。


作品の修正は、書籍が世に出る前の重要な工程であり、プロフェッショナルな過程の一部だ。

干渉されたくないなら、インディーズ出版を選べばいい。自分で責任を負えばいい。

その程度のことを「自由の侵害」とまで持ち上げるのは、自由に対するある種の誤解に他ならない。


私が理解する創作の自由は、もっと残酷で、もっと根源的なものだ。


それは、

書いた文字のせいで、当局に呼ばれ、事情を聴取され、拘束され、刑に処され、果ては精神病患者扱いされることがないこと。

一冊の本を書いただけで、自分と家族が恐怖にさらされ、最愛の人が巻き添えにされ、脅され、消されることがないこと。

これこそが、本当の「創作の自由がない」という現実の姿だ。


四百年前、ガリレオは『天体運行論』を書いたという理由だけで、宗教裁判所による長期迫害を受けた。

四百年後の今、ある場所では、一冊の本を書いただけで家破人亡し、妻と子を失い、果ては存在そのものを消されることすら、まだ現実に起こっている——しかも以前よりひどく。


西洋の作家たちが「編集者に口出しされない」ことを「創作の自由の勝利」と祝っているとき、

世界のもう一方の端では、「この本を無事に書き終えられるか」ということすら、常に頭の片隅に置いていなければならない人間がいる。


自由の地にいる者たちは「編集者に干渉されないこと」を自由と呼ぶ。

一方、ある者たちは「書いたことで尊厳や命を失わないこと」を自由と呼ぶ。


この二つの「自由」は、根本的に同じものではない。


人は、持っているものを当然のものとして見過ごし、しまいには「自分はそんなものを持っていない」と錯覚する。

もし創作の自由が空気だとしたら、誰もその存在に気づかない。

溺れながら必死にもがく者だけが、空気の本当の価値を知る。


創作の自由の本質は、決して「好きに書ける」という軽いものではない。

もっと深い意味はこうだ——

一人の創作者が、尊厳を失うこと、自由を失うこと、果ては命を失うことを恐れずに、自分の作品を忠実に書ききれるかどうか。


それが保証されない限り、どんなに華麗な「創作の自主性」も、所詮は精巧な幻に過ぎない。


理論上、自由は天賦人権だ。

だが現実では、自由は一部の人間が血と命を賭してようやく手に入れる、極めて希少な資源である。


自由の地にいながらそれに気づかない者たちは、恐らく永遠に理解できないだろう。


ある者は書くときに考える——「私は創作の自主性を保てるか?」

別の者は書くときに考える——「私はこの本を書き終えた後、生きていられるか?」


この二つの間の差こそが、創作の自由における本当の隔たりなのだ。




By VON(壹叔瘋神)

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