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物核「·」零 - 第三十二話 念想
ある角度から見れば、特権というのは、まことに甘美なものだと言わざるをえない。この「ある角度」というのは、言うまでもなく、特権を握る側の視点のことだ。今の黒星党において、その特権階級に属するのは幹部たち、とりわけ新人類として力を持つ幹部である。 新人類という存在は、乱世においては強大な武力であると同時に、奪い合いの対象となる希少資源でもある。ゆえに、よほどの強化系でもないかぎり、外を好き勝手にうろつく新人類などほとんどいない。大半の新人類は、勢力圏内の砦の中に押し込められ、外界から隔離されて暮らしているのが常だった。黒星党に属する三人の新人類も、まさにその典型である。 春の花が咲き始める季節になると、太陽が少し高く昇っただけで気温がぐんぐん上がり、外気温は二十数度でも体感は三十度近くに達する。普通の人間なら、「もう勘弁してくれ」と悲鳴を上げる暑さだ。 戦闘力という意味では非力な、能力だけを取り柄に黒星党の幹部に収まっている霊沙羅(れいさら)と野良優(のらゆう)は、そんな季節に、これまで味わったことのないほどのんびりとした日々を送っていた。一日に少し


世界の崩壊は裏切りから始まる
また午前四時になった。 就寝前のひとときに、最近強く共鳴を覚えた「車田正美事件」について語っておきたい。 公開されている訴状や報道を見るかぎり、これは長期にわたる会社資金の流用が疑われる重大案件である。しかし車田正美氏にとって、それは単なる財務的損失ではなく、長年信頼してきた人物からの裏切りでもある。あの陰りから抜け出すには、きっと長い時間が必要になるだろう。 そして自分自身を振り返る。 嘘に満ちた国で育ち、やや早熟だったこともあって、三十歳になるまで私はほとんど騙されたことがなかった。当時信じていたのは──家を出れば、そこはすべて悪人だ──という世界観だった。 そうやって社会を渡り歩き、しばらくは「自分だけは絶対に騙されない」と思い込んでいた。 だが、その後三つの出来事が起きた。 第一の裏切りは、かつて同じアニメ界隈で活動していた友人だった。彼はその後写真の道へ進み、独立スタジオを構え、私の結婚写真も彼が撮影した。十五年以上の付き合いのある友人が、三十代に入った頃、私に金を借りたいと言ってきた。額は小さい、五百元(約一万円)。返済のたびにすぐ次


文明ならざる文明史——人類、絶頂の自白書
私は創作ノートを整理しているのだが、以下の一篇は今なお強い余韻を残している。 AIが『老鬼(GHOST INDEX)』を評価する過程で、私は秦による六国滅亡が「侵略」なのか「統一」なのかをめぐり、激しい論争を経験した。 当時、私は文明史の視座から次のように書いていた。 すなわち、いわゆる「揭竿而起」であれ、「外族の侵入」であれ、それらは炎黄族による対外武力侵略、あるいは「化敵再征服」という巨大な流れの一部にすぎない。 現代の東土人が誇らしげに語る祖先――「始皇帝」が支配した秦国は、初期において中原(文明圏)の範疇には属していなかった。秦は炎黄文明の核心から遠く離れ、戎狄勢力圏に近接し、戎狄と雑居し、交易し、通婚していた。秦は周礼・周制・周暦を採用し、自らを周王室の後裔封臣と位置づけ、中原諸国と同じ「天命―王道―礼楽」の語彙を共有していたが、正統炎黄族――周・晋・斉の人々にとって秦は依然として「西方の辺鄙なる国、礼楽の邦にあらず」であった。 ゆえに秦が「化敵」――すなわち「炎黄に同化された西方の敵国」となった後、始皇帝の六国征伐は「内部的一統


物核「·」零 - 第三十話 神弓
津波というものは、人間の目でその姿をはっきり確認できた時点で、もう逃げ切ることはできない。その現実を、誰よりもよく知っている男が、怒鳴った。 「こんな時にかよッ!!!」 五代源蔵(ごだいげんぞう)は悪態を吐きながら、スロットルを全開に押し込んだ。さっき通り過ぎた入り江「ダイビングリゾートくまの灘」まで引き返せれば、もしかしたら皆を津波からやり過ごせるかもしれない。だが、その判断を、甲板の上の女が一刀両断する。 「ここでいい! 動くな!」 霊沙羅(れいさら)の声は、迷いを含まない硬い音だった。 「はァ!? 沙羅、今なんて言った!?」 野良優(のらゆう)も思わず立ち上がる。 「沙羅さん、冗談言ってる場合じゃ——」 その瞬間まで、歯を食いしばって耐えていた唯一の成人男性の奴隷が、とうとうヒステリーを爆発させた。 「黒星党ォ! 俺は死んでも、お前らみてぇなクズどもを——」 怒号は最後まで続かなかった。五代源蔵の手のひらが、ぶん、と風を裂いた次の瞬間、男は一撃で気絶させられる。だがおかしなことが起きた。 「……あ?」 それほど体格もよくない、どこにでもいそ


物核「·」零 - 第三十一話 內禍
黒星党と「長野隻狼」とのあいだで、一方的な虐殺事件が起きた——そういう経緯もあって、春に入ってからというもの、どの組も長いあいだ黒星党との「取引」を再開しようとはしなかった。噂話は、さらに尾ひれをつけて広まっていく。曰く黒星党は力に物を言わせて、長野隻狼を相手にシノギの横取りをやった。奴隷を奪ったあげく、首領・隻狼の首まで叩き切って持ち帰った……と。そこまで話が盛られれば、周囲のヤクザ者たちもさすがに距離を取る。その結果、四月の終わりごろになっても、黒星党は奴隷を一人として新たに仕入れることができなかった。 もちろん、そのあいだずっと五代源蔵(ごだいげんぞう)は烈火のごとく怒り狂っていたが、その影で、霊沙羅(れいさら)と野良優(のらゆう)が手をこまねいていたわけではない。ふたりに与えられた新たな任務は、霞折小町(かすおりこまち)という少女が「どんな能力」を持つ新人類なのか、徹底的に解明することだった。 野良優にとって、唯一の慰めは、五代源蔵が思っていた以上に"頭の切れる"男だった、ということだ。彼は、霞折小町の弱点が「食べ物」であると気づくと、そ


物核「·」零 - 第二十九話 走海
小町は、いったいどれほど長いあいだ、満足に食べられなかったのだろう。空腹をごまかすために、彼女は水を大量に飲んでいた。だから、おにぎりをひとつ半ほど胃に収めただけで、腹はあっという間にぱんぱんに膨れてしまった。とめどなく漏れる小さなゲップを両手で必死に押さえながら、小町は、新しくできた"お兄ちゃん"と"お姉ちゃん"の会話を、聞き逃すまいと懸命に耳を澄ませている。 「優くん。五代源蔵が、どうして"弓"を選んだのか……知りたくない?」 霊沙羅(れいさら)が、焚き火の残り火を見つめたまま言った。 「つい最近、場所が分かったからじゃないんですか?」 「違うよ。あの人ね、自分自身が、かつて"弓"に転化されかけたことがあるの。恐怖で震えながら、熊野以南には二度と近づかないって誓ったんだって」 「……そんな過去が?」 「あるのよ。だから逆に、不思議でしょ?」 「じゃあ……なんで、また?」 沙羅は、わずかに視線を落とした。 「心の闇と、向き合う覚悟ができたんじゃない?」 心の闇。言葉の意味は、よく分からない。けれど、聞いただけで背筋が冷えるような気配は、はっきり


物核「·」零 - 第二十八話 奴隷
五代源蔵(ごだいげんぞう)は、「弓を借りる」と言った。もちろん、文字どおり弓矢を借りるわけではない。ここで言う「借りる」も、「弓」も字面どおりの意味ではなかった。彼の頭の中にある"解決策"とはただひとつ——自ら軍勢を率いて、遠征に出ること。行き先は、紀伊半島の南新宮港。噂によれば、その沖合にもひとつの物核が存在する。名を、「弓」という。 情報の発端は、護衛艦「もがみ」(FFM-1)が残した緊急救援チャンネルだった。まだ「大災変」が、いまほど地獄という言葉で語られていなかった頃のことだ。護衛艦もがみは、最初に襲いかかってきた高さ2キロメートル級の災害級津波を、神業のような操艦で奇跡的に回避していた。だが、その幸運は長く続かなかった。対馬から横須賀へ帰投する途中、串本町沖を通過したあたりで、艦は突然、奇妙な現象に巻き込まれた。レーダーの残像。通信途絶。航路は正しいのに、艦だけが「世界から切り離された」かのように、すべての信号が途切れる。 いまなら分かる。それは物核の能力圏内に入り込み、転化、あるいは破壊された結果だ。しかし当時、その正体を知る者はいな
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